所用があって、8/10に酷暑の東京に帰りました。
11時45分、山荘出発時の外気温は24度、14時30分、調布インターを出た所では37.5度、実に温度差13.5度でした。
そして、もっと暑い週末が始まりました。
帰宅してシャワーを浴びていると、7歳下の元の職場の同僚K君の夫人から電話がありました。電話の中味は、昨夜、K君が急逝したとのことです。
元気で、健康なK君のことだけに思いもよらず、暫し絶句しました。
事情は次の通りでした。
前日9日の夜、K君は、友人と会食して東京駅で別れ、そこから蛎殻町の自宅まで歩いて帰ろうとしたようです。恐らく徒歩で15分程度、夜の10時半頃ですから、日中の暑さは和らいでいたことでしょう。
自宅から5分程度の、兜町の横断歩道を渡った所で、歩道にあるポールに激突し倒れました。救急車が到着したときには、心肺停止状態だったそうです。病院で手当を尽くしましたが回復しませんでした。
行政解剖の結果、直接の死因は、頸骨の一部骨折による(中枢)神経の切断だそうです。脳と内臓の神経経路が切断されると、全ての機能が停止するとか。
即死です。
横断歩道ですれ違った人が、後ろで音がしたので振り向くと、K君が倒れていて、驚いて救急車を呼んでくれたそうです。
停車中のタクシーの運転手も、音がしたので見ると、K君が倒れていたとのことでした。
ただ、激突の瞬間を誰も見ていませんでした。
こんなことがあり得るのか、というようなことでK君は一命を落としてしまいました。警察の説明を聞いても、家族は納得がいかないでしょう。もちろん家族から事情を聴いた私たちも釈然としません。
K君自身も、残念とか無念とか思う間もなく絶命してしまったのでしょう。誠にお気の毒なことです。
享年62歳でした。
K君は、1973年、サンパウロに赴任、一緒に、プロジェクトを立ち上げました。家族ぐるみ力を合わせて、慣れない土地での苦労を乗り越えました。
他人とは思えない関係です。
私にとっては、困難は多かったのですが、生涯で最も自分の力を発揮できた時期ではなかったかと思っています。
K夫人は、ショックと悲しみの中、現実を受け入れ、気丈に努めてK君の葬儀を済ませました。人気者のK君のために、酷暑の中、大勢の友人たちがお別れにやってきました。
これまで、様々な人を送ってきましたが、これほど衝撃が大きかったことはありませんでした。K君は、私も妻も、最も信頼する人の一人で、妻に、私が先立った後、困った場合には、K君に相談したらよい、とまで云っていた人です。まさか、この様な形で、K君が先に逝くとは考えてもいませんでした。
曲がったこと、曲がった人が許せない不器用な人でした。現実は、曲がったことの方が多く、曲がった人がマジョリティです。
それだけに、人から疎まれやすい面もありました。
しかし、人情が厚く、人の面倒見が良い人でした。
多くの人が彼に助けられたと思います。
気がついてみると、最近ブラジルに関係したエントリーが多くなっていました。K君の死と重ね合わせると、不思議に思います。
久し振りに、アクセス解析をチェックしてみると、何と、8/4日に半年振りでK君がこのブログを訪れてくれていたことが分かりました。
私たちがキイロスズメバチに刺されたエントリーを見ながら、K君はお別れに来たのでしょうか。
K君とは、よく飲んで語り議論をしました。こんなことになるのなら、もっと豪快に飲んでおけば良かった、と反省しています。
「この世に生を受けたもの、いずれは死を迎えるさだめ」ですが、K君は不運でした。余りにも早すぎます。
K君、お疲れ様でした。
君は、私たちがこの世に生ある限り、私たちの心に残り続けます。
有り難うございました。
茅野の山荘に戻って、ようやくK君のことを静かに考えることが出来るようになりました。
暑い、週末でした。